ディープインパクト2006年11月16日 05時20分00秒

 フランスギャロの裁定が出るのが今日(11月16日)だと思うのですが(現地時間の11月15日)、まだWeb上には出てないなあ。裁定前の段階の話としてはいまさらだし、待ってから書くべきなんでしょうが、メモ代わりに。

 まず、凱旋門賞へ向けてのローテーションについては、宝塚記念使わずに、天皇賞直後に渡仏して、何か前哨戦使うことははできなかったのかな、と思います。
 凱旋門賞のレースそのものについては、衛星中継を見て、う~ん、この馬にしてという感想でした。これも、ローテーションやら何やら、いろんな要素があったわけですが。
 帰国後、来年の凱旋門賞への再挑戦の話も出たんですが、まあ、これだけの馬になってしまったんだし、年内で引退→種牡馬、というのも仕方ないでしょうね。そもそも、まずは馬主が決めることですし。

 で、禁止薬物検出の話になるわけですが、まずフランスギャロが10月19日に示したのはこれ(PDF形式)。その後、同じく10月19日にJRA理事長コメントが出たんですが、この「汚点」という表現について、何という言い草か、と思ったという点含めて(こんなこと言われたら、馬主としては激怒だろう)、須田鷹雄氏の意見(10月19日,20日,21日)にかなりの点で同意、という感じです。
 あとは、メモとして、よく見ているところと、武豊騎手のオフィシャル。
 なお、この件について、10月20日の朝日新聞朝刊の社会面に記事があり、有識者ということでしょうが、3名のインタビュー記事が掲載されていました。asahi.comには見当たらないので名前とインタビュー部分の見出しを書いておくと、次のお三方。
  • 「気がつけば騎手の女房」の著者吉永みち子さんの話”態勢うかつ調査が必要”
  • 漫画家のやくみつるさんの話”引退撤回しリベンジも”
  • ドーピングに詳しい寺沢孝明・東京薬科大教授(スポーツ薬理学)の話”身体能力を増強しない”
 いうまでもなく、まあ何でこの人に聞きに行ったのか、というあたりから一番違和感があったのが「漫画家のやくみつるさんの話」な訳で。以下、引用。

余りにも初歩的な獣医師らのミスで、フランス側が痛くもない腹を探られることにならなければいいが。凱旋門賞で3位に入ったことで満足して引退することになったのだろうから、引退を撤回してリベンジ、という声も上がるのでは。関係者は投与に立ち会っていないのか。投与時期の問題を指摘できなかったのか。

 ……凱旋門賞3着に満足した関係者は皆無だったと思うんですがねえ。

 ついでに、これもひどいと思ったのは毎日新聞社説(2006年10月21日)。牧太郎氏がこの一言が欲しかった (2006年10月31日)(牧太郎の大きな声では言えないが)というコラムを書いてますが、この牧氏のトーンで書くべきだったのでは?(というか、この話を社説にするなら、牧氏に書いてもらったほうがよかったのでは?)さらにおまけとして、毎日社説を引いた毎日社説 ディープインパクト 再挑戦が汚名そそぐ道だ(2006年10月21日)(finalventの日記)も何だかなあ。いつも読んでますし、そういうところだとは承知してますが、それにしても毎日の社説をくさすのはともかく、あんたもクレアチン言いたいだけちゃうんかと。

 さて、ディープインパクトは天皇賞は結局回避して(そもそも、東京競馬場に検疫のため入厩する条件として、天皇賞への登録が必要、という記事を何かで読んだような)、残るはジャパンカップと有馬記念ですね。無事に走ってくれるといいな、と思います。

砲艦外交2006年09月25日 03時45分00秒

 ちょっと思い出したのでメモ代わりに。
 Gunboat Diplomacyという馬がいて、この馬、1993年から1996年にかけて、フランスで重賞を4勝(GII1勝、GIII3勝)しています。これが、生涯成績かな?あるいは、生涯の重賞成績かもしれませんが。ずいぶんと日本でもおなじみのペリエ騎手が乗ってますね。この4勝は全てペリエ騎手。
 さて、最初に勝った重賞が、1993年11月19日のPrix Des Chenes(GIII)(シェーヌ賞)で、いまは競馬場ではなくなってしまった(と何かで読みましたが、何だったかな)、Evryでのレースですな。馬場コンディションはSoft。ちなみに、シェーヌ賞の歴史Evry競馬場の説明
 他の勝利は、というと、1994年のPrix Noailles(GII)(ノアイユ賞)で、LONGCHAMPで馬場コンディションはHeavy。1995年の La Coupe de MaisonsLaffitte(GIII)(メゾンラフィットカップ、でいいのかいな?)で、これはMAISONS-LAFFITTEで馬場コンディションはVery Soft。1996年のPrix Exbury(GIII)(エクスビュリ賞)で、コースはSAINT-CLOUDで馬場コンディションはGood。勝ったレースの馬場コンディションは、GoodもあればSoftもあればVery SoftもあればHeavyもありますから、つまり、コースと馬場は不問だったってことですかね。
 ただ、G1ではちょい足らず、という感じで、1996年のPrix D'ispahan(G1)(イスパーン賞)2着、が最高ですね。イスパーン賞は、エルコンドルパサーwikipedia)のフランス遠征時(1998年)の最初のレースですね。
 最後のレース(?)Prix Gontaut-Biron (GIII)(ゴントービロン賞?)の勝馬は、カーリング(Carling)で、カーリングは1995年ジャパンカップに参戦してますね。ローエングリンの母、と言えばいいのか。

 話を戻して、このGunboat Diplomacy、血統はこれですね。種牡馬になって、marquisetとか、産駒も何頭かいるようです。
 父がDominionですからうまいこと名付けた、ってことなんでしょうけど……。現在のように香港やシンガポールで国際レースが開催されて、そこに遠征してきたらこの名前でどういうことが起きたんでしょうかね。やっぱり漢字4文字なら”砲艦外交”って書くよりないだろうし。ちなみに、Gunboat Diplomacyの母の名前はSingapore Girlなので、シンガポール遠征があれば、話題(?)になってた気がします。

吉永正人調教師ご逝去2006年09月13日 06時00分00秒

 9月11日の深夜、そろそろ12日になろうかという頃にこのニュースをネットで見つけてびっくり。ご冥福を祈ります。しかし、65歳は若いなあ。
 誰が考えたって、騎手としては何と言ってもミスターシービーということになるんですが、JRAによる調教師としての記録がこちら
 調教師としての管理馬のリストを眺めると、個人的には、ダート短距離で活躍したマルタカトウコウ、芝の1,600m前後で堅実に走っていたカオリジョバンニ、名前が印象的で、ダートでしか勝ったことがないのにいきなり日経賞に出てきたメロンパワーとかが、ああそうだったんだ、と思い出されます。
 あと、個人的備忘録として、サイトいくつか。
 で、吉永正人騎手といえば寺山修司となるんでしょうが、私は、山口 瞳の文章を下に引用しておきます。

 しかしながら、僕は釈然としないのである。立川競輪の時と同じだった。出目で取っても嬉しくない。
 去年の春の天皇賞で、僕はモンテプリンスの単勝を一万円買った。配当は二百円である。たった一万円の儲けであるが、そのときは嬉しかった。春の天皇賞は京都だから、僕は府中競馬場の場内テレビで見ていて、モンテプリンスが四コーナーを過ぎて外から出てきたとき、群衆のなかで、
 「吉永正人!」
 と叫んでしまった。競馬ってそんなもんじゃないのか。(以下略)
(山口 瞳、「草競馬流浪記」、”16 寒風有明海、御見舞旅行”、p.407、新潮文庫ISBN-4-10-111117-0)

 この「草競馬流浪記」には、
僕は寺山修司を追悼する意味においてもミスターシービーの単勝を買うつもりでいたが、(p.469)
なんてフレーズも出てきます。
 そういえば、「居酒屋兆治」のモデルになった、谷保駅前の”文蔵”もこの夏、閉店していたそうで。毎週のように府中競馬場に通っていた時期があったんだから、一度でいいから行っておけばよかった、というのは詮なき話ですね。
 もう一つ驚いたのは、吉永正人騎手がミスターシービーで三冠を達成したとき、42歳だったこと。いまの私と同年齢です。ミスターシービーの三冠レース含め、騎手時代の主なレースのDVD、見たいし欲しいですね。
 改めて、合掌。

マルマツエース2006年05月05日 08時45分00秒

 ギャロップダイナについては、￿別に書いた通り現役時のレース振りを実際に競馬場では見ていませんが、代表産駒のマルマツエースは、実際に競馬場でレースを観ています。
 いずれも東京競馬場で、時系列で並べると、
ですね。このとき(に限らず)、馬券は全て、マルマツエースから流して買ってました。
 八重桜賞は、ゴール少し手前で見ていて、マルマツエースは差してきて1着、このときは馬券も取れてよかったなあ、くらいな印象、また、着外に沈んだ毎日王冠は、いまとなっては何とも思いませんけど掲示板を関西馬が独占でビックリ、馬券もやられてガックシ、でした。
 一番思い出深いのはエプソムカップですかね。このときは友人と競馬場に出向いていて、返し馬を見ながら友人が、ヒダカハヤトの勝負服が、私のスキーウェアの配色によく似ている、なんて話までしていたのに、ヒダカハヤトを蹴飛ばして馬券買って、えらくガックリした覚えが。
 マルマツエースは、このエプソムカップが結果的に最後の勝利となったのですが、その前の安田記念(GI)は追い込んで4着という好内容で、確かこのとき、騎乗停止中だった安田富男騎手が騎乗できないことをえらく悔しがっていた新聞記事を読んだ覚えがあります。芝の良馬場で1,600m-1,800mだと、堅実に走ってたイメージなのですが。屈腱炎(だったと思う)にならなければねえ。

 しかし、改めて当時の競争成績など眺めていると、重賞勝ち馬じゃなくても、ああ、こんな馬いたなあ、という感じで、実に懐かしいですね。

カラ馬1着2006年05月04日 05時20分00秒

 ギャロップダイナの話で思い出した、カラ馬1着の話を。
 カラ馬で1着ゴールイン、というのは、確かにない話じゃないなあ、と思い、記憶を探ってみたのですが、このときの思考回路は以下の通り。
  • セン馬で、
  • しょっちゅう土肥騎手が乗ってて、
  • 確か小倉でやたら走ってて、重賞も勝ってた馬が、
  • 小倉の重賞で落っこちたんじゃなかったかな?
 で、「おお、それはアラシに違いない」と思ったのですが、あれ?別段落っこちてない……。
 しばらく悩んだあげくにたどりついた正解がワイドバトルで、落馬したときのレースは1993年京阪杯(GIII)でした。小倉じゃないじゃないか。
 調べてみると確かにどっちもセン馬で、土肥騎手が何度か乗ってて、ワイドバトルは1992年小倉記念(GIII)に、アラシは小倉で行われた1993年中京記念(GIII)に、それぞれ勝ってますな(両レースとも鞍上は土肥騎手)。でも、ワイドバトルの方がアラシの2歳上で、血統も違うし、なんでこんな記憶違いしてたのやら。こんだけ記憶が間違ってたら、馬券も当たらんわけだ……orz。
 なお、ワイドバトルは小倉で5走、アラシは小倉で3走ですから、どちらも小倉で重賞勝ちがあるとはいえ、実際にはメイショウカイドウほど小倉で走ってるというイメージでもないわけですね。思い込みはよくないなあ。
 このワイドバトルとアラシは、1993年京都金杯(GIII)、1993年小倉大賞典(GIII)で一緒に走ってますな。この1993年京都金杯(GIII)、よく言われますが名レースですね。

 まあ、カラ馬1着って、確かにオープンクラスだと珍しいんでしょうねえ。